日本の歴史2025.05.14 最終更新日:2025.05.28
東京大学の土地物語

東京の歴史と東京大学
東京は、日本の歴史とともに歩んできました。江戸時代から皇居を中心地として栄え、明治維新以降は近代国家の首都として発展を遂げました。そのような東京の歴史の一端を担うのが、日本国内で初めての近代的な大学として設立された東京大学です。本郷・駒場などの複数のキャンパスを有しますが、特に本郷キャンパスは歴史的な背景を持つ重要な場所の一つです。
東京大学と本郷キャンパスの歴史
東京大学は、日本国内で初めての近代的な大学として設立された名門大学です。
本郷キャンパスの敷地は、江戸時代には加賀藩主前田家の上屋敷があった場所に位置しています。加賀藩は、加賀・能登・越中の三ヵ国にまたがる広大な領地を有していた有力外様大名であり、その藩邸もまた壮麗なものでした。
加賀藩上屋敷は中山道沿いに正門を構え、庭園には心字池(三四郎池)を擁し、格式高い武家屋敷の様相を呈していました。この地には、加賀藩の上屋敷だけでなく、外様大名である加賀藩を取り囲むように水戸徳川家の中屋敷や松平家の屋敷も存在していました。
加賀藩上屋敷の広さは約88,482坪にも及び、水戸藩中屋敷も約64,332坪という広大な敷地を誇りました。これらの土地が後に東京大学の本郷キャンパスとして活用されることになったのです。
赤門と江戸時代の大名屋敷
本郷キャンパスのシンボルとして有名な赤門は、江戸時代の歴史を今に伝える貴重な建造物です。この門は、11代将軍徳川家斉の21女・溶姫(ようひめ)が文政10年(1827年)に加賀藩第13代藩主・前田斉泰に嫁ぐ際に、御守殿の門として建設されたものです。
江戸時代、大名たちは幕府から江戸に屋敷地を与えられ、立派な藩邸を構えました。その際、大名屋敷の門はその家格を示す象徴的な存在であり、格式の高い家柄の門は豪華な造りとなっていました。赤門もその例に漏れず、現在でもその姿を残し、東京大学の歴史的建造物として広く知られています。
江戸の都市構造と武家地
江戸の都市構造を見てみると、江戸城を中心に武家地が約70%を占め、その外側には寺社地(約15%)、さらに町人地(約15%)が隅田川沿いに広がっていました。日本橋や新橋といった商業の中心地は町人地に属しており、江戸の都市計画の特徴が色濃く表れています。
また、古地図においては、大名や旗本の屋敷の表記に特徴があります。屋敷の門の方向を基準として文字が記されているため、地図上では文字の向きがバラバラになっています。これは、当時の土地の管理や屋敷の配置を視覚的に示すための工夫の一つでした。
このように、本郷キャンパスのある地は、江戸時代の大名屋敷の名残を色濃く残しながら、現在では日本を代表する学術の中心地としての役割を担っています。
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執筆者:土地物語